ネトレプコがスザンナを演じた「フィガロの結婚」を観るが、あまり楽しめず。演出家の自己満足的舞台はうんざりだ
5月10日のNHKBShiでロシアのソプラノ歌手アンナ・ネトレ
プコの特集放送があった。まずは昼間にアンナ・ネトレプコが
スザンナ役の「フィガロの結婚」で、ザルツブルグ音楽祭の上
演。他は夜になってから「椿姫」、BBC交響楽団との共演など
で、未見は「フィガロ結婚」だけなので、録画しておいた。
その10日からちょっと数日かけて一人でのんびりと東北への
温泉ドライブにでも行こうかと思っていたのだが、結局雨にな
りドライブは行く気も起きず、映画を見に行った。そして、今
日録画しておいた「フィガロの結婚」を鑑賞。
すでにDVDでも発売されている06年のザルツブルグ音楽祭で
のモーツァルトオペラ集中上演の際にもっとも話題になった公
演。指揮者はニコラウス・アーノンクール。オーケストラは当
然ウィーンフィル。
フィガロにイルデブランド・アルカンジェロ、スザンナにアン
ナ・ネトレプコ、アルマヴィーヴァ伯爵にボー・スコウフス、
伯爵夫人にドロテーア・レシュマン、ケルビーノにクリスティ
ーネ・シェーファーと、まあ現時点でのかなり豪華なキャスト
を集めての公演だ。
そして、ザルツブルグ音楽祭らしく、いつものごとくに現代の
スーツ、ドレス姿で登場の演出。いわゆる演出をもっとも重視
のオペラ公演だ。しかしね、この種の作曲当時に想定された時
代背景などを無視した現代衣装での演出家の自己満足的演出は
もううんざりだ。
今回の演出はほとんどが白い壁が背景で、階段を設けてあるぐ
らい。それを背景にごく普通のスーツやドレス姿であまり大き
な演技的動きもなく進行する。なのに、その中に元の台本には
ない天使が至る所に登場して恋の導きでもしているような設定
で、現代版演出と天使と言うなんともちぐはぐな組み合わせに
はそれでどうしたのと言う気分だし、解説過剰と言うのかなん
とも鬱陶しい限り。邪魔でしかない。
これなら、コンサート形式でのオペラ全曲演奏と何ら変わらな
い。それに、話自体がフランス革命以前の貴族と庶民のあり方
がテーマになっているのだから、現代衣装では少しもそのイメ
ージが湧かない。それに、衣装も舞台も美しくないし、楽しさ
が少しも伝わってこない。
それは演出家とアーノンクール(元々それほど好きな指揮者で
はないが)の意向なのかもしれないが、アーノンクールの音楽
作りもあってか重苦しいばかり。とくにアルマヴィーヴァ夫妻
役の二人の過剰に重い歌唱がそれを助長してモーツァルトオペ
ラの楽しさがサッパリ伝わらない。それに、バルトロ役のフラ
ンツ・ヨーゼフ・ゼーリヒが車椅子で登場する意味が皆目不明。
救いはネトレプコの軽さと、ケルビーノとしては重いことは重
い歌唱なのだが、女性らしさをあまり感じさせない少年っぽい
イメージに凛とした歌唱が魅力的だったシェーファーの存在。
この現代的演出は最近ヨーロッパで流行だが、神話的話が主体
のワーグナーやバロックオペラならそれも面白いだろう。だい
たい神話の世界に時代背景などどうでも良いのだから。だから
こそ、ワーグナーでのバイロイトでのヴィーラント・ワーグナ
ーの前衛的演出などは面白かった。しかし、モーツァルトやヴ
ェルディやプッチーニなどはほとんどがどこまでも時代背景が
あるものだ。それを無視したものは作曲家自体の意向さえ無視
してしまうんじゃないだろうか。演出家ってのはそんなに偉い
のかい。あくまでオーソドックスな演出中心のメトロポリタン
オペラのものなどのほうが観ていても楽しい。
という訳で、今日は天気も悪く、ドライブに行くのも止めたの
で、ベーム指揮のもとヘルマン・プライが当意即妙のフィガロ
を演じる楽しい「フィガロの結婚」をLDで観て、口直ししてし
まった。
| 固定リンク
« 久しぶりに観た「我が青春に悔なし」の原節子の気品ある凛とした美しさに圧倒 | トップページ | アホの巣窟コイズミチルドレンの象徴片山さつきのサイトのまるで少女マンガの主人公のような本人写真が思い切り笑える »
コメント