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2009年6月19日 (金)

「脳死は人の死」と一律判断の臓器移植法改正案が衆院で成立。他人の死を望む形になる脳死臓器移植は疑問だな

「脳死は人の死」と一律判断になってしまう臓器移植法改正案が
衆院で可決された。これまでは脳死臓器提供は15歳以上、本人
の書面での生前の臓器提供の意思表示が必要との脳死臓器移植の
暴走を阻止する一定の条件があったのだが、今回のもっとも緩や
かな臓器移植への条件であるいわゆるA案が可決となった訳だ。

この議決では議員の政治的、経済的思考とはまず関係ない。その
人間の死生観であり、死刑に関する判断と似たところがある。人
権重視だからとかも関係ない。人権のことを考えれば考えるほど
判断は出来なくなる。それほど難しい問題だ。これで臓器移植は
進捗することになるだろうし、ドナーになりたい人は積極的に臓
器提供すれば良いだけだし、法案に賛成した議員さんは脳死状態
になれば絶対に臓器提供してくれるのは確実だしね。

時事通信の記事では
…………
提供年齢制限を撤廃=衆院、移植法改正A案を可決−与党・民主、党議拘束外す
 衆院は18日午後の本会議で、臓器移植法改正4法案のうち、脳死後の臓器提供の年齢制限(現行法で15歳以上)を撤廃するA案を賛成多数で可決、参院に送付した。投票総数430票のうち、賛成263票、反対167票だった。与党や民主党などは「死生観にかかわる」として党議拘束をかけず、議員個人の判断で投票した。国内での移植推進に向け一歩前進したが参院でも過半数を得て今国会で成立するかどうかは不透明だ。
 現行法では、脳死後の臓器提供は15歳以上という条件に加えて、本人が生前に書面で意思表示した場合のみ可能となっている。これに対しA案は、年齢制限をなくすとともに、本人の意思が不明でも家族の同意があれば提供できる内容だ。
 また、現行法が臓器移植する場合に限って脳死を「人の死」とするのに対し、移植推進の立場から一律に「脳死は人の死」と踏み込んだ。親族への優先提供も認めた。A案は自民党の中山太郎、公明党の福島豊両氏らが2006年に国会提出した。
 採決は記名投票で行われた。共産党は「審議が尽くされていない」として棄権した。(2009/06/18-13:33)
…………
この人間の生命、倫理観、生命哲学のもっとも深遠、重大な問題
なのだが、国会審議はわずか8時間しかなったようだ。それで良
いのだろうか。それほど性急に決めるべき話なのか。国民の間に
もいまでも「人間の死」は心肺機能の停止、心臓機能の停止なの
ではないだろうか。脳死自体が現時点でそれほど厳密に定義され、
厳密に確認できるものなのだろうか。それも、子どもたちの脳死
など本当に間違いなく判定できるのだろうか。

DNA鑑定さえ、科学的だとそれに頼り過ぎた結果が足利事件のよ
うな冤罪を産んでしまったのではないのか。脳死状態の人間は子
供なら体は成長もする。それをいくら脳が機能を停止していると
言っても、親などはそれを素直に「死」と納得できるだろうか。
人間の体ほど不可思議なものはない。心臓が停止したとされた人
間が生き返ったなどという事例もあるではないか。それが、体は
生命活動を維持し、体温もあり、切れば血も出る訳だ。その体を
脳が死んでいる(本当に死んでいるのか。それは医者の判断であ
り、誤りは一切ないのだろうか)として、他の人間の機能維持の
ために必要だと言うことでその体を切り刻むことが許されるので
あろうか。

改正案はAやDとか複雑であり、議員たちは本当にその中身を全精
神を動員して理解し、納得して議決したのか。

そのA案とは
…………
移植法改正A案のポイント
 1、脳死は「人の死」を前提とする。本人が生前に拒否することも可能
 1、臓器提供できる年齢制限を撤廃(現行法は15歳以上)。本人の生前の意思が不明の場合は家族の同意で提供できる
 1、臓器の親族への優先提供を認める
 1、政府や地方公共団体は、移植医療に関する啓発や知識普及に必要な施策を行う
 1、政府は、児童虐待による死亡者からの臓器提供がないよう対応する
…………
というものらしい。

脳死判定されるのを避けるには本人が生前に拒否するしかないの
だが、遺言さえそんなにしない日本人がそんなものを意識して残
すだろうか。しかも、判断能力さえまだ未熟な子供がそんなこと
をする訳がなく、親の“子供の死”の私物化にならないだろうか。
それも子供虐待が日常茶飯事であり、それが虐待と認定されず臓
器移植に便利だからと都合の良い臓器材料となって行かないだろ
うか。

世界では臓器移植のための人身売買さえ噂されている。日本でも
臓器を提供されるのは金がある者、臓器提供はカネのない者とい
う図式にならないだろうか。だいたい、臓器移植の順番がどうな
っているのか。いくらでも操作される可能性がありはしないか。
臓器移植に熱心な医者が暴走して、それに追従する医者たちが脳
死判定を急ぎすぎることにならないだろうか。疑問と不安が山の
ようにある。

臓器提供者(ドナー)となる側(とくに子供)の人権が本当に厳
密に守られるのだろうか。成長過程にある小さな子供の脳の機能
など科学的に本当に完全に解明されているかは疑問だ。

今回の議決でも議員それぞれの判断であり、どちらの判断が良い
とか、悪いとかの判断はできない。自分自身の考えしかない。そ
して、私自身は、基本的には国家が公開殺人をするような死刑に
は、冤罪の可能性もあり一応反対(しかし、冤罪を言うならどの犯
罪でも冤罪はあるんだが、死刑執行してしまえば生命を回復でき
ないのがほかの刑罰との違い)であり、ただ、その場合は現在の
無期懲役のように釈放があるようないい加減なモノではなく、死刑
に値するような犯人には釈放一切なしの終身刑で、その終身刑犯
のみを収容する刑務所を孤島などに設置し、生ける屍状態に収容
して外部との接触はほぼゼロで最小限の待遇が良いんではない
かな。それの方が犯人には苦痛が多いし、犯行抑止(死刑になっ
て死にたいから犯行したなんて奴がいるからな)になるのではと思
う。そして、臓器移植だが、心臓死移植、身内の命を助けるために
やむを得ない生体臓器移植(これも現実には傷害罪)は別にして、
他人の死を望むことになる脳死臓器移植は基本的に生理的に厭
だな。だいたい臓器摘出の際に麻酔をするとか言うのは脳死患者
が痛みを感じる、つまりは生きていると医者も認識しているからで
はないのか。脳死患者が涙を流したり、冷や汗をかいたりしてい
るとの情報もあるらしい。ああ、嫌だ嫌だ。

難病で臓器移植しか助かる道がないとしても、人間は事故で若く
して死ぬ時もあるし、運命というものがある。それも宗教とは関
係なく、いわゆる神の摂理なのではないだろうか。人の死を待っ
て死を免れる。それも少しでも早くその死が訪れることを望む。
それってやはりおかしくはないか。神への冒涜ではないかと思っ
てしまう。とにかくあまりに難しい問題だ。なのに、こんなに簡
単にこれまでの日本人の死生観を覆してしまうような「一律に脳
死は人間の死」なんてのを法律で決めてしまって良いものなのか。

脳死とはつまりは脳が働いていないってことで、脳機能不全の究
極の姿とは言える。そうなると、頭の悪い者、精神障害者なども
それへの過程にあるものと拡大解釈すれば、ナチス的な選民思想
に行き付くんじゃないのか。精神病院なんかで脳破壊をしてしま
って臓器提供の素材の脳死患者にするなんて恐怖の世界も想像し
てしまうのだ。もっとも、コイズミに脳細胞を破壊されてしまっ
た自民党クサレ議員どもはほとんど脳死状態とも言えるので、彼
らの臓器を利用するのは彼らが議員をしているよりはよほど役立
つことだろう。しかも、彼らは心臓に毛が生えているらしいから
臓器移植には最適だ。

ところで、他人の臓器を移植しても拒絶反応がある。輸血でも血
液型が違えば出来ないのに、他人の臓器をそう容易に肉体が受け
入れるものなのか。そのためには抑制剤など多量の薬物による副
作用もあるだろうし、術後も一生薬などでのコントロールが必要
だ。なんだか、医療関係者の新技術への好奇心と金儲け、そして
製薬企業のためだけのように見える。科学の一種の傲慢にも見え
るのだ。そして、脳死状態の患者の医療費削減しか頭にない官僚
の浅知恵が加わった結果かな。

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コメント

今日は、kabumasaさん。
書いておられる記事、全くその通りだと思います。非常に難しい問題を、今のこの不安定な政権が、しかもろくに審議時間も取らずに決めてしまうというのは、拙速ということを通り越しています。

>難病で臓器移植しか助かる道がないとしても、人間は事故で若く
して死ぬ時もあるし、運命というものがある。それも宗教とは関
係なく、いわゆる神の摂理なのではないだろうか。人の死を待っ
て死を免れる。それも少しでも早くその死が訪れることを望む。
それってやはりおかしくはないか。神への冒涜ではないかと思っ
てしまう。

本当に強く同意します。
私もブログで取り上げようかと思いましたが、あまりにも難しい問題で、ボンクラ頭では整理がつかなくて、諦めました(笑)おかげ様で頭の中の霧が晴れたような気分です。ありがとうございました。

投稿: something | 2009年6月20日 (土) 10時52分

臓器提供の是非を決める根拠は、臓器提供者の倫理観のみが全てである。したがって臓器移植でしか助かる道がない病者、レシピエント(recipient)が臓器移植を受ける権利を保有していると主張することは基本的にあり得ない。ただ提供者の崇高な倫理観に基づく善意に対し謙虚に感謝すること、彼らにできることはそれだけである。医療者は病者の治療に誠をもって尽くすのみであり、ヒポクラテスの誓詞の精神を常に堅持しなければならない。

生と死を意識するとき、それは物質的観念ではなく人の心の問題である。どの民族にもある先祖崇拝の祭祀がその現れである。それが人に Homo sapiens(wise man)と名付けた所以の一つであり、人それぞれの倫理観が基礎を成す観念でもある。
 なにゆえに生と死の境界を定義しなければならないのか。医療とくに臓器摘出を前提にしたとしても、その必要性はどこにも認められない。生と死の境界を定義するのは、臓器を摘出しても殺人罪不成立のために法律上でのみ必要な問題である。
 脳死は事実ではなく、単に医師のみに認められた診断権によって「脳は死んだ」と医師が法律に従って診断した結果が「法律上の脳死」なのです。しかし、脳死診断には厳格な規定を定めてはいるが、この診断が誤診であってもなくても問題にはしていない。脳死診断、つまり人間のすることには誤りが必ず起こるのです。兎に角、臓器摘出を前提とした場合の取り決めとして「脳死と診断された人の体、その遺体は死体である」と、臓器摘出のために便法として法律上「人の死」と定義しただけのことです。法律上脳死を人の死としなければ臓器を摘出すれば殺人罪が成立します。これは、戦場の兵士が敵兵を殺戮しても殺人罪が成立しないのと同じ根拠を求めているのであり、あるいは警官が凶悪な犯罪者を射殺しても「人殺し」と呼ばれないのと同じ法律上の解釈です。(しかし、その行為は「人殺し」である)
したがって脳死を一律に人の死とするならば、脳死と診断したときには臓器摘出や移植を前提としなくても(移植が不要になった脳死者を含めて)直ちに死亡診断書を医師が作成し埋葬することができることになるし、否埋葬しなければ国会での議論は支離滅裂といわれるでしょう。しかし、このような診断書を書いた医師がいたなどとは聞いたことはないし、今後もないでしょう。
 さらに付け加えると新しい法案Aの第一条第二項には「臓器の摘出に係る脳死判定は、次のいずれかに該当する場合に限り、行うことができるものとすること(旧第六条第三項関係)」と条件が明記してあり、さらに「脳死の診断作業の開始には家族の同意が必要」と規定しています。つまり臨床上あるいは医学的に診断した脳死と、「法律に従って診断された脳死」とは違うのです。兎に角、国会での議論の目的は「一般的な人の死」の定義ではなく、臓器摘出のための便法としての「法律上の死」を決めようとしているのです。
したがって全ての脳死者の家族が臓器提供の決断を迫られることはなく、「脳死が人の死であってもなくても、また脳死の診断が誤診であっても自分の、あるいは家族の臓器を提供しよう」という人のみが法的脳死診断を受け、そして臓器を提供するのです。つまり、移植のための臓器を脳死者から得るために「法律上脳死を人の死」と決めたのであって、脳死は一般的な人の死ではないのです。現在、臓器提供者の生命が危険に晒されない輸血、臍帯血移植、骨髄移植、腎臓移植、角膜移植など一部の臓器移植はなんら障害なく実施できています。これらの臓器移植が議論の対象にならないのはなぜか、理解していますか。
しかし、「脳死を一律に人の死とすることに抵抗がある」「脳死で死んだら臓器を提供するのがあたりまえという空気が広がり、それが遺族に無言の圧力として作用することを恐れます」「臓器移植が不要になっても、脳死=人の死なのでしょうか?」「人の命を法律で決めることは間違いではないかとも思ったりもします」「呼吸器をはずして、死期を早めて、さらに拒んでいた臓器で他人が助かるという社会というのは一体どんな社会なのでしょうか」などと、すべての脳死者の体が死体であり臓器提供の対象となるかのような議論が横行しています。
私は基本的に臓器移植には賛成の立場で意見を述べていますが「脳死は脳の死であって人の死ではない」と考えています。しかし、脳死者からの臓器摘出には未解決の問題があるにも関わらず単純な議論をしている人たちが多く、もっと大切な基本的問題に気付いていないのです。「脳死者からの臓器摘出」と「臓器移植」とは全く次元の異なる問題であると気付いていないことを憂いているのです。
臓器移植法について議論している人たち全員に、私が質問したいことを以下に挙げます。
1 臓器移植に賛成か反対なのか。それとも臓器摘出に反対なのか。
2 反対ならば、外国へ出て外国人の脳死者から移植を受けることにも反対か
3 国内での移植あるいは脳死者からの臓器摘出に反対ならば、臓器移植法改正の議論をする前に外国で移植を受けることを禁止するべきである。禁止しなければ大いなる矛盾あるいは「反対者は狡い」と考えないのか
4 臓器移植でしか助かる道がない病者、レシピエント(recipient)が臓器移植を受ける権利を保有していると考えるか
私は「そのような権利は基本的に存在しない」と考える。
5 「脳死を人の死とするのは、臓器移植を前提にした場合のみである」と考えるか
  法案を見ると「脳死判定による脳死を人の死としている(第一条第二項)」の
である。つまり家族は判定作業を拒否できるので、脳死であっても法律上の脳
死判定をしなければ人の死ではない。
6 医学上での「脳死はヒトの死」と、法律上の「脳死は人の死」との違いを理解しているか(NHK地球法廷参照)
7 「法律上の脳死判定作業の開始を指示するのは誰か」知っているか。
8 脳死者あるいは死亡者から臓器を摘出すると「殺人あるいは死体損壊の罪」になることを知っているか
9 臓器移植のための「脳死は人の死」とすることに反対ならば「戦場の兵士が敵兵を殺戮する」あるいは「警官が凶悪な犯罪者を射殺」した場合「殺人者として裁くため刑法の改正が必要である」と考えるか
10 医者が手術によって患者の体を傷つけても、傷害罪に問われない根拠を知っているか
 基本的に私は臓器移植に賛成の立場ですが、脳死者からの臓器摘出には未解決の問題があることを指摘したい。また、「全ての臓器移植が患者にとって最も良い治療法、そして良い予後が必ずしも得られものではない」「症例によっては臓器移植をしないことが良い終末医療にもなる」と考えていますが、現状では「脳死診断が誤診であっても臓器を提供します」という人のみが臓器を提供すればよいと考えます。

参考までに次の意見をお読みください。 
  NHK地球法廷  生命操作
http://www.kdcnet.ac.jp/college/sikamasu/hou.htm
NHK地球法廷-2
http://www.kdcnet.ac.jp/college/sikamasu/nhk.htm


投稿: 大澤 昭義 | 2009年7月22日 (水) 16時01分

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