アル中会見で世界に恥を晒した中川昭一元財務相が56歳の若さで急死
G7で泥酔状態で記者会見して世界に醜態を晒した極右自民党の代
表的存在で、衆院選ではあっさりと敗退して現在タダの人の中川
昭一元財務相が急死とか。まだ56歳の若さ。合掌。
朝日新聞の記事によると
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中川元財務相、都内の自宅で死亡 検視では死因不詳
2009年10月4日12時49分
4日午前8時18分ごろ、中川昭一・元財務兼金融相(56)が東京都世田谷区下馬5丁目の自宅で倒れているのを妻(50)が発見し、119番通報した。警視庁によると、中川氏は2階の寝室のベッドにうつぶせで死亡していた。目立った外傷はなく、検視では死因は不詳だった。家族の承諾が得られたことから同日中に都監察医務院で行政解剖する。世田谷署は遺体や室内の状況から事件や自殺の可能性は薄いとみている。
同署によると、中川氏はポロシャツに短パンをはき、乱れはなかった。掛け布団はかかっていなかった。通報で駆けつけた救急隊員が死亡を確認。検視した午前10時41分の時点で死後半日程度とみられる。外部から侵入した形跡ないという。
妻が3日午後9時すぎに帰宅した際、中川氏は寝室のベッドで眠っており、異変はなかった。中川氏が起きてこないため、妻が午前8時すぎに寝室に入って中川氏が息をしていないのに気付いた。それまで寝室には出入りしていなかったという。
遺書は現時点で確認されていない。家族が同署に説明したところによると、中川氏は不眠を訴えて睡眠薬をのむことがあり、最近病院に通っていたという。
中川氏は1953年生まれ、東大法学部卒。日本興業銀行勤務を経て83年に衆院選で初当選し、8期務めた。麻生内閣で財務相兼金融相に就任したが、今年2月の主要7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)後、もうろうとした状態で記者会見。飲酒を疑われて批判を浴び、その後同相を辞任。8月の衆院選で落選した。
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父親の中川一郎も不審な自殺でこれもわずか57歳で亡くなってお
り、悲劇の政治一家だね。父親も睡眠薬を常用していたとか言われ
ていたし、息子もアル中でしかも睡眠薬常用で病院通いとはね。
言っていることは、アホのアベシンゾーらと似たような国家主義的
極右イデオロギーに毒された勇ましいことだらけだったが、結局そ
のアベもアホーアッソーも言うことだけは愛国心だ道徳だと自身に
は一切持ち合わせていないものを国民にだけは強制するクソ政治を
喚き自爆した訳だが、中川も小心でプレッシャーに弱い所詮は政治
家向きではないのに無理して政治家を続け、酒に溺れてアル中にな
り様々な醜態を晒し、酒に逃げるだけでは間に合わず、不眠になり
睡眠薬に頼るしかなかった訳か。酒と睡眠薬じゃ体ボロボロだよ。
G7の醜態の時にアッソー政権の河村官房長官などの連中が「風邪薬
のせい」とか庇ったりしていたが、あんなのは本人の体のためには
毒でしかない。本人も潔く議員辞職して入院し、徹底的なアル中治
療などしておけばこのような事態にはならなかったものを。
P.S.:
今日は起床したのが昼過ぎなので、このニュースを知ったのは記事
を書く直前なのだが、「ぬぬぬ」さんの記事を読んでいたら、NHK
などでは午前10時のニュースでやっていたようだ。
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いま10時のNHKニュース冒頭で
中川昭一元大臣が東京世田谷区の自宅にて
死亡しているのが発見されたとのこと。
ビックリしたので、珍しく速報します。
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自民党応援番組、サンデープロジェクトで生で触れるかと思ったんだけど、
延々と目つきの悪い石破氏ゲルの民主党批判をノーカットでやらせる田原総一郎の「配慮」の凄まじさ。
ようやく25分頃になって石破のコーナー終了間際に、同じスタジオ内のテレ朝アナウンサーの速報読みがあったんだけど
直後のイシバと田原は何にもなかったかのように頑張ってくださいとか挨拶してコーナーを終了。
5mと離れてない所で自民党の仲間の死が報じられたにも関わらず、恐ろしいまでの完全無視。
イシバ死ゲルの冷徹な目つきの悪さとともに冷ややかな感じが背筋にゾクっと走ったぞ。
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中川の思想嫌悪の私でも、死を悼んで「合掌」と書いている
のに、この二人は死の速報があっても無視かい。素晴しい人
間性喪失の奴らだ。まあ、あのキモイ目付きのイシバなんて
のはその程度のもんだろうけど。
あと、自民マンセー、民主党のことなら何でも攻撃のアホの
象徴ネットウヨの代表「ヒロシの独り言」がこの中川死亡の
件で、“メディアの「個の圧殺」報道の犠牲になられた中川
昭一氏”と書いていて、相変わらずの失笑もんです。要因の
第一は自己規制も出来ない本人、アル中の人間を要職に就け、
さらには醜態まで庇い続けた自民党だろうが、ボケ。
P.S.のP.S.:
ムネオ日記の4日付けの文章が心に残る。
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「ただただ驚き、びっくりで言葉もない。何という事か。私と中川さんについては、昭和58年の最初の選挙で骨肉の争いとか、確執とか言われたが中川一郎先生は世襲反対論者だったが息子さんが出る以上、息子さんの事を心配されたであろうし又、私の事も心にかけてくれたと思う。だから私は二人当選することが天国の中川一郎先生に報いる事だと思いながら戦った。その証拠に中川一郎先生の弟さんが後援会長もして下さり、ご兄弟も応援してくれた。中川一郎先生の議員会館にいた秘書仲間も全員私の元に駆け参じてくれた。お陰様で2人共当選出来て私は何よりだったと思った。私は中川昭一さんに対しては堪えずお仕えした人の息子さんという思いで接してきた。その最大の証(あかし)、出来事は平成7年中選挙区制から小選挙区制になった時、中川昭一さんは十勝、今の11選挙区を希望した。私も十勝生まれ、十勝育ち、ましてや先祖の墓もある生粋(きっすい)の十勝っ子である。中川さんは東京生まれの東京育ちだ。私にもこだわりがあったが釧路根室管内に国替えをし中川さんに譲ったものだった。
あの時、コスタリカ方式で残ることも出来たが私にはやはり、お仕えした人の息子さんの強い意向というものを尊重しなくてはという思いにかられた。いつも私はその事を胸に刻みながら接してきました。こんなにも早くお別れするのなら一度ゆっくりいろんな話をしたかったと叶わぬ事とはいえ今、とっても残念でなりません」と話させて頂く。
中川昭一さんのご冥福を心から祈るのみである。
人生何があるかわからない。失望や挫折はついてまわる。自分の計算通りにはいかない。私自身十分経験し天国と地獄をみてきた。しかし私は正直に、信念を持って生きてきた。これからも生きていく。
改めて政治の世界が厳しいものだと実感する。
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こういう政治家を罪に陥れた売国奴コイズミの今さらながら
の人間性喪失に唖然とするしかない。
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